「短編小説」
明治美味草紙
明治美味草紙 其の玖・珈琲(乃木希典&静子)
その死は一つの時代の終焉を告げるものだった。
明治四十五年七 月三十日、明治天皇は持病の糖尿病が悪化、尿毒症を併発し六十一歳で崩御した。明治維新から始まり、急激な西欧化、さらに日清、日露戦争の勝利と激動と繁栄の時代はここに終わりを告げたのだ。
悲しみ覚めやらぬ同年九月十三日、一時代を築いた偉大な主君の大喪の礼が東京・青山の帝國陸軍練兵場において執り行なわれたのだが、陸軍大将である乃木希典は直立不動の姿勢のまま明治天皇の棺を見つめ続けている。その表情は悲しみにくれるというよりはむしろ何か決意を秘めているようで、部下達は勿論、大臣達も乃木に声をかけることはできなかった。
大喪の礼が終わり、赤坂にある自宅に帰ると乃木は妻の静子に珈琲を所望した。
「これが最後の珈琲になるから特に美味しく入れてくれないか。」
冗談めかしていう乃木の目は笑ってはいなかった。そう、彼は明治天皇の死に殉じる覚悟を決めていたのである。そんな乃木に対し、静子は少しだけ表情を動かしたが動じる事も無く微かな笑顔を見せた。
「ではわたくしもご相伴に預からせていただいても宜しいでしょうか?」
普段控えめで、節目がちな静子とは思えぬ、射る様な視線を乃木に向ける。その目は乃木に負けず劣らず決意を秘めたものであった。
「珈琲と・・・・・そして陛下のお供にも。」
「静子!」
思いもしなかった妻の言葉に乃木は声を荒らげる。だが、静子は乃木が荒ぶるほど落ち着き、平静さを見せた。
「大帝がおかくれになった今、この世に旦那様を引き止めるものが無い事はわかっております。妻として甚だ情けなくはございますが・・・・・私も軍人の妻としての矜持がございます。せめてお供をさせてくださいませ。」
老妻の言葉は静かでそして重かった。
そもそも乃木は日露戦争時において二人の息子を亡くし、多くの犠牲者を出してしまった事に責任を感じて、戦争が終わった時点で切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止されていた。
『子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるように。』
それでも明治天皇は乃木が自ら命を絶ってしまうのではないかと心配したのだろう。あえて学習院の院長に任命し、軽々しく命を絶てないよう責任を負わせたのである。
その際『自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん』と明治天皇から言葉を賜っていた。その明治天皇が亡くなった今、妻の言うとおり彼をこの世に引き止めるものは誰もいないのである。
「そうだな・・・・・お前一人、置いていくのも良人としてあまりにも無責任だな。」
二人の息子もすでに死んでしまった今、静子はただ一人遺されてしまう。そんな妻を一人遺していくことに乃木は罪悪感を感じた。
「そうですよ。戦であればあなたは絶対に帰ってくるって信じて待っていられますけれど、今回ばかりはそうじゃありませんもの。」
笑顔を見せる静子の顔には共に生きた歳月を刻んだ皺が刻まれている。喜びも、そして悲しみも共に分かち合ってきた夫婦なのだ。
「そうだな・・・・・・じゃあもう少しだけ俺の我侭に付き合ってくれないか、静子・・・・・・・今までこんな男の妻でいてくれてありがとう。」
しんみりとした乃木の言葉に応え、静子は珈琲を持ってこさせる。乃木の栄光のような芳醇な香りと、乃木の挫折そのもののような珈琲のほろ苦さを、二人はゆっくりと堪能した。
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
この辞世を詠み、大正元年9月13日夕方、乃木希典は妻とともに自刃した。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木 が割腹し、再び衣服を整えた上で、自ら頸動脈と気管を切断して絶命したらしいと検死報告は述べている。
UP DATE 2010.08.22
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明治美味草紙も9月分に入りました。今回は明治終焉の有名な切ない系の話を題材にしてみました。
殉死というのはしばしばある話なのですが、この二人のように夫婦連れだってというのは(私個人の勉強不足ゆえに)この話しか存じ上げません。やはり一人遺されてしまう妻を不憫に思っての心中だったのか、それとも愛情の深さゆえだったのか・・・・・たかだか結婚年数十年の私には計り知れない深い繋がりというものがあるんでしょうねぇ。二人仲良く生きてあと、二、三十年くらいしたらこの二人の心境の本当の意味が判るようになるのかな~といつも以上に想像力を駆使して書かせていただきました。同じ題材で十年後、二十年後にもう一度この二人の話に挑戦してみたいですね。(何せ経験不足で・笑)
次回十月分は『坂の上の雲』に登場する秋山兄妹のどちらかか、夏目漱石を主人公にしてみたいと思います。(『漱石先生、ジャムを舐める』、買ったはいいけどまだ拝読していないんですよね~。いい機会なので挑戦してみたいと思います。)
明治四十五年七 月三十日、明治天皇は持病の糖尿病が悪化、尿毒症を併発し六十一歳で崩御した。明治維新から始まり、急激な西欧化、さらに日清、日露戦争の勝利と激動と繁栄の時代はここに終わりを告げたのだ。
悲しみ覚めやらぬ同年九月十三日、一時代を築いた偉大な主君の大喪の礼が東京・青山の帝國陸軍練兵場において執り行なわれたのだが、陸軍大将である乃木希典は直立不動の姿勢のまま明治天皇の棺を見つめ続けている。その表情は悲しみにくれるというよりはむしろ何か決意を秘めているようで、部下達は勿論、大臣達も乃木に声をかけることはできなかった。
大喪の礼が終わり、赤坂にある自宅に帰ると乃木は妻の静子に珈琲を所望した。
「これが最後の珈琲になるから特に美味しく入れてくれないか。」
冗談めかしていう乃木の目は笑ってはいなかった。そう、彼は明治天皇の死に殉じる覚悟を決めていたのである。そんな乃木に対し、静子は少しだけ表情を動かしたが動じる事も無く微かな笑顔を見せた。
「ではわたくしもご相伴に預からせていただいても宜しいでしょうか?」
普段控えめで、節目がちな静子とは思えぬ、射る様な視線を乃木に向ける。その目は乃木に負けず劣らず決意を秘めたものであった。
「珈琲と・・・・・そして陛下のお供にも。」
「静子!」
思いもしなかった妻の言葉に乃木は声を荒らげる。だが、静子は乃木が荒ぶるほど落ち着き、平静さを見せた。
「大帝がおかくれになった今、この世に旦那様を引き止めるものが無い事はわかっております。妻として甚だ情けなくはございますが・・・・・私も軍人の妻としての矜持がございます。せめてお供をさせてくださいませ。」
老妻の言葉は静かでそして重かった。
そもそも乃木は日露戦争時において二人の息子を亡くし、多くの犠牲者を出してしまった事に責任を感じて、戦争が終わった時点で切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止されていた。
『子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるように。』
それでも明治天皇は乃木が自ら命を絶ってしまうのではないかと心配したのだろう。あえて学習院の院長に任命し、軽々しく命を絶てないよう責任を負わせたのである。
その際『自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん』と明治天皇から言葉を賜っていた。その明治天皇が亡くなった今、妻の言うとおり彼をこの世に引き止めるものは誰もいないのである。
「そうだな・・・・・お前一人、置いていくのも良人としてあまりにも無責任だな。」
二人の息子もすでに死んでしまった今、静子はただ一人遺されてしまう。そんな妻を一人遺していくことに乃木は罪悪感を感じた。
「そうですよ。戦であればあなたは絶対に帰ってくるって信じて待っていられますけれど、今回ばかりはそうじゃありませんもの。」
笑顔を見せる静子の顔には共に生きた歳月を刻んだ皺が刻まれている。喜びも、そして悲しみも共に分かち合ってきた夫婦なのだ。
「そうだな・・・・・・じゃあもう少しだけ俺の我侭に付き合ってくれないか、静子・・・・・・・今までこんな男の妻でいてくれてありがとう。」
しんみりとした乃木の言葉に応え、静子は珈琲を持ってこさせる。乃木の栄光のような芳醇な香りと、乃木の挫折そのもののような珈琲のほろ苦さを、二人はゆっくりと堪能した。
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
この辞世を詠み、大正元年9月13日夕方、乃木希典は妻とともに自刃した。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木 が割腹し、再び衣服を整えた上で、自ら頸動脈と気管を切断して絶命したらしいと検死報告は述べている。
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明治美味草紙も9月分に入りました。今回は明治終焉の有名な切ない系の話を題材にしてみました。
殉死というのはしばしばある話なのですが、この二人のように夫婦連れだってというのは(私個人の勉強不足ゆえに)この話しか存じ上げません。やはり一人遺されてしまう妻を不憫に思っての心中だったのか、それとも愛情の深さゆえだったのか・・・・・たかだか結婚年数十年の私には計り知れない深い繋がりというものがあるんでしょうねぇ。二人仲良く生きてあと、二、三十年くらいしたらこの二人の心境の本当の意味が判るようになるのかな~といつも以上に想像力を駆使して書かせていただきました。同じ題材で十年後、二十年後にもう一度この二人の話に挑戦してみたいですね。(何せ経験不足で・笑)
次回十月分は『坂の上の雲』に登場する秋山兄妹のどちらかか、夏目漱石を主人公にしてみたいと思います。(『漱石先生、ジャムを舐める』、買ったはいいけどまだ拝読していないんですよね~。いい機会なので挑戦してみたいと思います。)
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